努力せず楽しく生きる方法とは?不安や悩みから逃避して楽しい人生を

楽しく生きる
ライフ(人生)

「楽しく生きる方法」は本を読んでも分からない!

楽しく生きることは難しい。

なぜなら「楽しく生きる方法」を考えている人の多くは、「いま不幸な人」だからです。

しかし世に流通している自己啓発本や「幸せに生きるためのハウツー」は、「いま幸せな人」の視点で書かれています。

例えば、

自分に自信を持ちましょう!私を見習ってください!

悩むな!直感で「今」を生きろ!毎日が楽しければそれでOK!

考えずに「行動」することが大切!結果は後からついてきます!

などなど。

私自身、そうした言説に大量に触れてきました。1000冊以上を通読した自己啓発本マニアです(笑)

しかし、そのうえで導き出した結論は、「それができれば苦労はしない」という一言に尽きます。

役に立たないんです。
自己啓発本やハウツーサイトって、とことん成功者の視点で書かれていますよね。

上から目線で、猪突猛進型、参考にならない体験談ばかりが延々と紹介されていたりします。しかも自慢げに…。

そうした成功例を「追体験」することで、確かに読後はちょっと元気が出てきたり、楽しい気持ちになったりすることもあります。

でも実用性には乏しい。大抵の結論はスローガンやポエムみたいなもので、気休めにしかなりませんでした。

自己啓発本が役に立たない理由

自己啓発本が役に立たない理由
そもそも成功者には「特殊な人」が多いです。生まれ持っての性格、才能、育った環境など、飛びぬけて個性的な人ばかり。

だからこそ成功者の体験や方法論には再現性がありません。

普通の人が同じように努力して、「楽しく生きる方法」を実践しても(再現しようとしても)、失敗する可能性が高いのです。

例えていうなら、成功者はスポーツカーのようなもの。

スポーツカーには、スポーツカーでしか表現できない華麗なコーナリング、最高時速数百キロという加速性能があります。

しかも彼らはサーキット場で激しい競争を勝ち抜いたエリート。いわばスポーツカーの中のスポーツカーです。

しかし私たち普通車(軽自動車かも?)は、街角のコーナリングにさえ苦労しながら、お世辞にも優秀とは言えないエンジンで、一般道を走っています。

サーキット場での競争なんて、そもそも求めていません。一般道でスポーツカーの運転技術は(ほとんど)役に立ちません。

「今が楽しくない人」や「不幸な人」は、あくまで「自分が楽しく生きる方法」を知りたいのです。

いわば「普通車で街中を快適に走る方法」を求めています。

しかし啓発本に書かれている内容の多くは、「時速400キロでレースを勝ち抜く方法」だったり、「速度を緩めずにハンドルを切る方法」だったりします。

一般道でそんなことをしても、交通事故を招くだけです。

「他人のことは気にするな」とか「嫌な仕事は今すぐ辞めろ」とか、処世術としてはあまりにリスクが高いアドバイスばかり。

「失敗から学べ」なんて言われても、交通違反や事故が免責されるわけではありません。

楽しく生きる方法 = 不幸を遠ざけるという考え方

楽しく生きる方法
普通車には普通車の運転技法があります。
わたしたち凡人には凡人なりの「楽しく生きる方法」があるはずです。

日本人は「楽しく生きるのが下手な国民」だと言われています。

サービス残業をいとわず、有給の取得率は先進国で最低水準。マイナス思考の持ち主が多く、恋愛にも消極的な人が少なくありません。

どうやら「国民性」というて観点から考えてみても、楽しく生きるのは難しい。
では発想を転換してみてはどうでしょう。

楽しく生きる方法とは、「不幸を遠ざけることだ」という風に。

例えば、「楽しくないこと」や「嫌なこと」をしない。

「人生は楽しまなきゃダメだ!」と強迫的に考えるのではなく、いわば消去法で「楽しくないこと」を一つ一つ人生から取り除いていくのです。

楽しく生きることは難しいかもしれませんが、「不幸を遠ざける生き方」なら何となく実現できそうな気がしませんか?

不安や悩みは克服せずに『逃避』する

不安や悩みを逃避する
そうは言っても不安や悩みは尽きないし、コンプレックス(劣等感)だってある。
嫌な仕事もしなくちゃいけないし、彼氏はいないし、お金もないし…

そんな反論が聞こえてきそうです。

不安や悩みとは正面から向き合うのではなく、あえて「逃避」してみてはどうでしょう。
わたしたちは、

悩みは解消することができる(解消しなくてはならない)

問題を解決できないのは、自分の努力が足りないからだ(だから努力しなくてはならない)

不安や欠点は克服できる(克服しなくてはならない)

…というような考え方に慣れ親しんでいます。

でもそれって、単なる先入観ではないでしょうか。悩みの多くは一生消えないのが普通ですし、人生に不安・不満はつきもの

少なくとも私の周囲に欠点(短所)を克服できた人は見当たりませんし、人一倍努力して何かを成し遂げた人もいません。

むしろ成功談として多いのは、「人間関係に疲れてサラリーマンを辞め、起業した人」とか、「絵を描くこと以外に取り得がないから、イラストレーターとして働いている人」とか、何かを「諦めた人」のエピソード。

見方を変えれば、一種の逃避行です。

努力の副作用がもたらす害

努力の副作用と害
努力は苦痛を伴います。
ときに「副作用」をもたらし、それが原因で不幸になることもあります。

努力は美徳と見なされることも多いのですが、世の中には「無駄な努力」があることもわたしたちは経験的に知っています。

例えばプロスポーツの世界で生きていける才能の持ち主は、100人に1人もいません。
「プロになるための努力」は徒労に終わるのが普通です。

スポーツを通じて「体を動かすことの楽しさ」、「社会性やマナー」、「コミュニケーション能力」などは学べるかもしれません。

しかしどれだけ努力しても、プロのスポーツ選手として成功できる人間はほんの一握り。
確率的には「宝くじに当たる人」と同じくらい少ないはずです。

だからこそ、わたしたちはスポーツや習い事を「嗜む」程度で満足します。嗜むとは、ほどほどに努力して、ほどほどに楽しむこと。

しかし一部の人は、嗜むだけでは飽き足らず、能力の限界を超えてプロを目指します。

その結果、学業は疎かになり、普通の職業ではキャリアアップできず、10代~20代を棒に振る人も珍しくありません。

これが努力の副作用です。

プロを目指すことさえしなければ(嗜む程度なら)、スポーツや習い事に害はありません。むしろ人生を豊かにしてくれる側面の方が大きいはずです。

しかし「努力で何とかなる」「誰でもプロになれる」という思い込みに取りつかれてしまうと、自身が「最も得意なこと」「好きなこと」でさえ、人生に害を及ぼすのです。

努力をすればするほど、時間を浪費し、将来的な選択肢は狭まっていく。

プロスポーツの世界は特殊だから仕方ない、と思われるかもしれませんが、問題なのは、私たちの日常にもこのような危険性が潜んでいることです。

日常に潜む「努力すれば解決する」という思い込み

努力は万能薬ではない
対人関係を例にとって考えてみましょう。
「人前で話すのが苦手な人」や「職場の人間関係に疲れやすい人」はけして少なくありません。

そういう人々に対しては、

「場数を踏めば何とかなるよ」 → 社会経験が足りないだけ!

「他人のことを気にし過ぎだよ」 → 心構え次第で性格は変わる!

「気合と根性で乗り切ろう!」 → みんな我慢しているんだから、あなたも我慢しなさい!

というようなアドバイスがあり得るかもしれません。煎じ詰めれば「努力が足りない」ということです。

しかし実際には、人前で流暢に話せるのは「適性のある人」です。

職場の人間関係を上手にマネージメントできる人は、大抵の場合、そのために必要な資質(社交的な性格など)をはじめから持ち合わせています。

彼らは人一倍なにかを「我慢」しているわけではありません。
気合も根性も人並ですが、「なんとなく上手くやれている人」の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

経験不足を痛感したり、努力の必要性を感じたりするのは、「自分が苦手な分野」とか「自然にできないこと」です。

ある程度は努力で克服できる部分もあるかもしれませんが、必ずしも全ての悩み、問題が努力で解消されるわけではありません。

「人前で話すのが苦手な人」は、人前で話すという行為自体に大変な苦痛を覚えます。

「痛い」と訴えている人に対して、「努力が足りない」というアドバイスはどれほど冷酷に響くことでしょう。

「職場の人間関係に疲れやすい人」は、人間関係そのものがストレスの原因になります。
「そんなことみんな我慢している」と言われても、「私」と「みんな」は違います。

「我慢」や「ストレス」の許容値も人ぞれぞれ違って当然ですし、それは身長や血液型がそうであるように、自分では選べないものです。

すなわち「経験や努力で何となる」問題と、そうでない問題がある。
努力とは万能薬ではないのです。

「できない」ことは諦めて、無理なく「できる」ことを探る

できることを探る
しかし世の中では(特に成功者の言説に多いのですが)、努力することで全ての問題が解決するかのように言われています。

プロ並みに成功することは無理でも、誰でも「人並み」には目標を達成できる。(達成しなくてはならない)

その前提を疑う人は、「怠け者」と呼ばれたり、「考え方が甘い」と言われたりします。

わたしの考える「楽しく生きる方法」は、こうした世間の常識とは相容れない部分があります。

努力の大切さは認めますが、生まれ持っての資質をより重視すべきだと思うのです。
「人並みにできないこと」は、努力しても「のびしろ」が少ない。

努力の過程で苦痛やストレスを覚えることも多く、努力が徒労に終わる(無駄になる)例も珍しくない。

でも自分に「向いていること」は、それほど努力を必要としませんし、ときには努力そのものが愉悦となります。

わずかな出力から大きな成果を得られて「楽しい」からこそ、自然と頑張れる。

もちろん、どれだけ資質に恵まれていても、ときにはスランプに陥ったり、周囲の理解を得られず苦しい思いをしたりします。

でもそれは、より「高い次元での悩み」であって、解決する価値のある問題です。

誰もがプロレベルにまで資質を伸ばし、成功できるとは限りませんが、「自己実現」や本当の意味での「自己啓発」に至る可能性は高い。

潜在意識ではみんなそのことが分かっているからこそ、「趣味を仕事に」「プロとして独立する」といった生き方に憧れるのではないでしょうか。

「能力至上主義」と「資質を重視する生き方」の違い

必要最小限の努力で何ができるか
ここまでの私の主張は、

「無駄な努力はやめて、生まれ持った才能を磨け」

という風に聞こえるかもしれません。
偏狭なオバサンのお説教みたいです。

でも「才能を磨け」=「生まれ持った資質を伸ばすべきだ」という価値観は、「得意な分野でプロを目指せ」という強迫的な教育論と紙一重。

それは一種の「能力至上主義」「才能偏重主義」と言い換えることもできます。

才能や能力だけで人間を評価し、人生の価値を一面的に捉え過ぎている。

そういう考え方もやはり誤りだと思いますし、「楽しく生きる方法」というよりはむしろ、不幸を招く原因に思えます。

先ほど私は、プロスポーツの世界で成功することの厳しさを指摘しました。いくら努力しても、プロの世界で成功できる可能性は非常に低い。

もっと控えめに「好きなことを仕事にする」、「得意な分野で生計を立てる」、という風にハードルを下げても、思い通りにいかない人の方が多はずです。

才能偏重主義は「才能がなければ幸せになれない」という人生観に陥りやすい。
だから私は、「誰もが生まれ持った才能を伸ばさなければならない」とも思いません。

私の主張したい「資質をより重視する生き方」というのは、あくまで「不幸を遠ざける」生き方です。

いわば「何をするか」ではなく、「何をしないか」という消去法の上に成り立っています。

例えば、苦手なこと、苦痛を覚えること、コンプレックスやトラウマについて、正面から向き合うのではなく(努力で解決しようとせず)、とりあえずは放置してみる。

そのうえで、自分が「楽しい」こと、自然にできる(できそう)なことを、積極的に探してみる。

いわば「必要最小限の努力で何ができるか」を考えていただきたいのです。

私の体験談「コミュ障にOLは無理!」

私の体験談
ここで一つの実例として、私の体験談をお話したいと思います。

先ほど「人前で話すのが苦手な人」や「職場の人間関係に疲れやすい人」を例に挙げましたが、あれはそのまま私の性格に当てはまります。

しかも極度の人見知り。簡単に言えば「コミュ障」ですね。

かつての私は「苦手意識は克服できる」(克服しなくてはならない)と考えていました。

だからあえて接客業のバイトに応募したり、「話し方セミナー」に参加したり、「為せば成る」式の自己改革に励んでいました。

サークルや職場の人間関係も疎かにせず、むしろ人付き合いに積極的な人間だったと思います。

一度は大手の企業に就職し、フットワークが要求される総務職も経験しました。

就職後は、大勢の前でプレゼンすることも日常茶飯事。会社のイベントでは頻繁に司会を担当し、多い日には電話対応も1日に数十件という職場でした。

人前で話すことが苦手で、しかも人間関係に疲れやすい私にとっては、どれも本当に大変な業務に思えました。

やりがいがないわけではありませんでしたが、毎日の緊張感、ストレスはやはり大きく、そういった仕事を「楽しい」と感じたことは一度もありません。

転職を繰り返し気づいたこと「努力してもダメなものはダメ」

努力してもダメなものはダメ
自分なりに努力はしたつもりです。
苦手意識の一部は克服できたかもしれません。
しかしOLの仕事に「喜び」や「楽しさ」は見出せませんでした。

努力の原動力となったのは、「不安を消したい」という切迫感。
それでも悩みや心配は尽きませんでしたし、毎日が憂うつでした。

退職を決意したのは、就職してから5年後。

「楽しく生きる」という観点から見ると、この仕事に将来がないように思えたからです。
「今より幸せに暮らしている未来の自分」がまったく想像できなかった。

その後は転職を繰り返し、10年間で6つの職場を渡り歩きました。

最後に就職したのがWEBの制作会社。
コピーライターとして雇用され、3年間ほど実務経験を積みました。
その際に痛感したのが、

① 私には人間関係に適応する能力がない
(表面上は適応できても、職場を問わずストレスが大きい)

② 才能をいくら磨いても「幸せ」や「楽しさ」には直結しない

③ 努力と幸せの分量は比例しない。むしろ反比例することも多い

以上3つのポイントです。

①は私の性格によるもので、これ以上は改善の余地がないように思えました。

②は自身の才能に気づいてから得た知見。
コピーライターは初めて自分に「向いている」と思えた仕事です。

でもいくらその能力を磨いても「楽しい」とは思えませんでした。

社内でトップクラスの業績を上げても、上司や同僚から認められても、まったく楽しくはないのです。「次も期待に応えなくては」というプレッシャーばかり大きくなっていきました。

③は転職を繰り返して分かったこと。詳しくは先ほど述べました。

「無駄に終わる努力」もあれば、「努力が苦痛をもたらす」こともある。経験則から得た諦念です。

3つのポイントを一言でまとめると、「努力してもダメなものはダメ」という身も蓋もない結論に集約されてしまうのでした…。

人間関係ゼロの毎日で楽になった!

人間関係のストレスから解放
WEBの制作会社を退職した私は、思い切ってフリーランスという道を選びました。

経験や努力を重ねても、人間関係の悩みは尽きない。どうやら自分は根本的に、会社勤めが向いていないらしい…

それならいっそ、一人で働いてみようと思ったのです。しかし私には特別な才能が何もありません。

コピーライターの実務経験はありましたが、たかだか「向いている」程度の才能で、果たしてフリーランスとしてやっていけるのか。
完全な見切り発車で、暗中模索の日々が始まりました。

独立した当初、私にはコネもノウハウもありませんでした。

収入が途絶え、数ヵ月は貯金を切り崩すだけの日々が続きました。でもしばらくして気づいたのです。

「このまま仕事が見つからないかもしれない」というストレスは、人間関係のストレスに比べてずっと小さい。

少なくとも私の場合、「自分がこの先どうなるか」ということに対しては、自分でも驚くほど楽観的だったのです。

一方で、「他人にどう思われているのか」、「嫌われているのではないか」、この手の不安に私はとことんデリケートです。

不安や悩みの根底には、いつも「他人」の存在がありました。
しかし自分の将来に対しては、良い意味で鈍感でした。

独立後は試行錯誤の連続で、必要な知識はすべて独学で習得しなくてはならず、それでも仕事は見つかりません。

ただ、自分自身で「努力している」「苦労している」という感じはなく、「必要なこと」を淡々とこなしていく毎日でした。

これまでとは明らかに原動力の種類が違うのです。
それは不安でも恐怖心でもなく、「やるべきことをやる」という自己陶冶の心理に近いものでした。

まるでパズルを組み合わせていくときのように、集中力と時間だけが要求される日々。

気づけば仕事も徐々に増えて、何とかWEBライターとして生計を維持できるようになっていました。(それでも収入はOL時代の半分程度ですが)

執筆した記事のいくつかは、検索サイトで1位を獲得。これが私のささやかな成功体験です。

「楽しくない」から逃避した先に「楽しく生きる方法」が

努力せずに楽しく生きる方法
私が見つけたのは、「努力せずに楽しく生きる方法」です。

厳密に言うと、「努力を全くしない」というわけではありませんが、「自分の苦手なことを克服する努力」は、だいぶ前に放棄してしまいました。

結果として(私自身の人生観に反して)、私は不幸になることもなく、むしろ「人生で今が一番楽しい」と思えるようになりました。

いわば「楽しくない」から逃避した先に、「楽しく生きる方法」が見つかったのです。

そして気づいたことがあります。

自分にとって「楽しくない」努力、苦痛や不安を伴う努力は、実は「妥協」と紙一重です。
「みんなやっているから仕方ない」という思考停止の状態が、世間では我慢とか忍耐とか呼ばれて、美徳のように扱われている。

そうした常識にある種の「ごまかし」を見て取ったのは、ドイツの哲学者ウィトゲンシュタインです。
彼は哲学的な問題や言語活動をゲームとして捉え、「言語ゲーム」という概念を提唱しました。

ドイツの哲学者に学ぶ幸福論

ウィトゲンシュタインの幸福論
今回、私は偉そうに人生観や幸福論を語っていますが(ごめんなさい)、その趣旨の多くはウィトゲンシュタインの理論によるものです。

彼はあらゆる言語活動をゲームと見なしました。
例えば、「努力とは何か」という問題は非常に哲学的に聞こえますが、実は定義(意味)の問題です。

「努力とは、苦手なことを克服する作業である」

「努力とは、自分の才能を伸ばすことである」

「努力とは、苦痛を耐え忍び、自己改革に励むことである」

このように、努力の定義(意味)は様々な表現で提示できます。
だから「努力とは何か」という問いは成立しない、ウィトゲンシュタインはそう考えました。

定義(意味)づけとは各々の「解釈」の問題で、唯一無二の「真理」に至ることはありません。

したがって「努力とは何か」と問うこと自体、誤り(ナンセンス)だというのがウィトゲンシュタインの主張です。

(それは例えば「本物の赤とはどんな色か」と問うようなもので、本来は答えようがありません)

この理論は同様に、「楽しく生きるとはどういうことか」、「楽しく生きる方法とは?」というような問いにも応用できます。

つまり、楽しく生きる方法は人それぞれで、絶対的な「正解」はない。
問い自体が成立しないからこそ、正解もないのです。

※ウィトゲンシュタインはこれら「正解のない問い」について、「ゲームのルールに違反しているようなものだ」と表現しました。

ここまでのまとめ

ここまでのまとめ
話が複雑になってきたので、ここで少し整理しておきましょう。

成功者の体験談は応用がきかない(一般人には再現できない)

「努力すれば幸せになれる」という思い込みは危うい
(努力しても無理なものは無理!)

「できない」ことは諦めて、「できる」ことをやった方が効率的で楽しい
(自分の資質や適性を見きわめると楽)

「何をするか」ではなく、「何をしないか」と消去法で考えることも重要
(表面上は「現実逃避」に見えてもOK!)

無駄な努力を回避するために「必要最小限の努力で何ができるか」を考えてみる
(苦痛のない努力は楽しい…かも)

「逃避行」で不幸から遠ざかる生き方を徹底すると、意外に楽しい人生が見つかる
(ただしこれは私個人の体験談なので、参考にならない部分もあると思います)

「正しい努力とは何か」「楽しく生きるとはどういうことか」というような問いに正解はない
(無限の解釈がある以上、問い自体が成立しない)

随分とひねくれた主張に思えますが、私自身、はじめからそのように考えて行動していたわけではありません。

ただ、数年前にウィトゲンシュタインの理論に触れてから、人生上の明確な指針を獲得できたように思います。
人生観が大きく変わった、と言っても良いかもしれません。

以前の私は「正しい努力」や「正しい生き方」が存在すると思っていました。
そういったものを積み重ねていけば、楽しく生きることができると。

人生には唯一無二の「正解」があって、誰もがその道を進むべきだと考えていたのです。
世間の常識に囚われて、努力も我慢も苦労も妥協も、全てを混同していました。

しかし、フリーランスとして独立して以降(普通の仕事から逃避し)、必ずしも「正しい努力が存在するとは限らない」という知見を得ました。

人はある種の努力を放棄しても、苦手なことを克服しなくても、楽しく生きることができる。

当初は「たまたま運が良かっただけかも…」と半信半疑でしたが、そのとき偶然目にしたウィトゲンシュタインの理論が、私の新たな人生観を補強してくれました。

いわば哲学の世界で革命を起こした偉人から「お墨付き」をもらったのです。

楽しく生きる方法は、自分自身で決めることができる、と。

楽しく生きる方法に正解はない。だから「ゆとり」もOK

楽しく生きる方法に正解はない
私の主張は、非常に逆説的な意見を含んでいます。もしかすると、

「楽しく生きる方法は、そんな方法はないと知ることだ」

…という風に聞こえるかもしれません。
なんだか禅問答みたいです。
でも厳密に言うとちょっと違います。

「楽しく生きる方法は、人それぞれ違う。努力や才能はそのための手段の一つであって、全てではない」

つまり、「楽しく生きる方法に正解はない」というのが、私の提言したい幸福論です。

苦手なことから逃避するのも、ある種の努力を放棄するのも、必ずしも間違いだとは限りません。
自分にとっての「楽な道」が、案外「楽しく生きる」ための近道だったりするからです。

例えば最近の若い人たちは、努力に見合う結果が得られなことを「コスパが悪い」という風に表現します。
「気合」「根性」「やる気」といった言葉を敬遠します。

そのため「ゆとり世代」などと揶揄されることもありますが、結構クレバーな「戦略」と見ることもできるのではないでしょうか。

彼らは挫折を味わうことのないよう「リスクヘッジしている」、または、「努力を効率化&最適化している」と言い換えることもできるからです。
(ウィトゲンシュタインなら「それも定義の問題だ」と言うことでしょう)

物事をこのように多面的に見る方法を、哲学や論理学の世界では「相対化」と言います。

「相対化」すると不安や悩みが消えることも

俯瞰して見る
私を含め多くの人には「一面的になり過ぎる」傾向があって、例えば不安や悩みに直面したとき、大抵の場合は視野が狭くなっています。

そういう際に役立つのが「相対化」という作業。

色々な角度から悩みや不安を見つめ直し、新たな切り口、解決策を探してみる。
すると意外な結論が見えてくることもあります。

これ以上は努力しても無駄かもしれない… とか、「とりあえず放置」がベターな選択かもしれない… とか、真逆のことをやった方が楽しいかも… とか。

換言すれば、物事を「俯瞰して見る」ということですね。

たとえ悩みやトラブルそのものを解決できなくても、俯瞰して考えると「気が楽になる」ということはよくあります。

よく言われるのは、
「宇宙の歴史から見れば私の人生なんてほんの一瞬だ」
「発展途上国に比べれば日本はまだ恵まれている」というような表現。

これも相対化の一種です。
(このような「極端な比較」にはあまり実用性がありませんが…)

日頃から物事を相対化する習慣を身につけておくと、自然とポジティブな考え方ができるようになります。

少なくとも、深刻に考えすぎる(一面的になり過ぎる)という「思考の落とし穴」を回避することはできるはずです。

最後に

最後に
今回は私という凡人の視点から「楽しく生きる方法」を提言してみました。

いわば「普通の人が比較的簡単に人生を楽しく生きる方法」です。

苦手なことから逃避する生き方というのは、確かに消極的かもしれません。
でもだからこそ、省エネで、負荷(苦痛)の少ない、汎用性に優れた方法ではないでしょうか。

特別な才能や努力を必要としませんし、ちょっとした「心構え」さえあれば、誰にでも実践できる方法です。
ただし、言い方を変えれば、

「努力の必要性を疑う」
→ 最低限必要なことはピンポイントできっちりやり切る

「人生に正解はない」
→ 自分でオリジナルの「幸せ」(自分なりの回答)を追求しなくてはならない

「自分の資質に合った生き方を選ぶ」
→ 自分の資質を見きわめるまでは立ち止まらず、色々なことにチャレンジしてみる

以上のような厳しい側面も含まれています。
「世間に合わせた方が楽」だという人もいますから、必ずしも万人におすすめできる方法ではないかもしれません。

もちろん「みんな私みたいに生きた方が良い」と言うつもりはないですし、「言うは易く行うは難し」という部分もあると思います。

しかしそれでも、世間と自分の価値観に「ズレ」を感じている人や、「普通に暮らしているのに楽しくない人」には、ささやかな「抜け道」くらいは提示できるのではないか…

そう考えてこの記事を執筆しました。

「楽しくないことはやらない」=「不幸を遠ざける生き方」に気づくまで、私は10年かかりました。

達観したとかそういう感慨は全然なくて、「もう少し早く気づいていれば楽だったのに!」「今までしんどかった!」というのが正直な思いです(笑)

私が闇雲に苦労して抽出した人生のエッセンスが、ちょっとでも皆さんのお役に立てば幸いです。

最後にウィトゲンシュタインの名言をご紹介。

「君自身が君の世界だ。君の生き方で、君の世界はいくらでも良くなっていく。
君が良いと思ったら、それで良い。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない」

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● 文/マイハピ編集部 山下美香

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